一庫ダムを眼下に里山遊び 善源寺山(2002.1.20)


  
P・@〜E
P・@〜E

北摂ラリーから1週間。ラリーのハードさをすっかり忘れたS田さんとボクは,懲りもせず,またもや北摂へ。ラリー1日目の残りの乗り乗り山へ行くことにしました。とはいうものの,場所は川西市。2時間半もかかって,ようやく乗り乗り山のふもとへ。車を川西市郷土館の駐車場(P)にとめます。

このあたりは,山下という地名のようです。能勢電鉄は,この山下駅から妙見方面と日生中央とに分かれています。住宅地を抜け,南麓の神社マークを目指します。行ってみると,車をとめるスペースはありません。先には,大昌寺の駐車場がありますが,手前にある川西市郷土館の駐車場がよさそうです。時間があれば,帰りに寄ってみたいものです。

車をとめ,MTBの準備をします。ところが,ここで愛用のウインドブレーカーを忘れたことが発覚。S田さんのものを借りることで事なきを得ましたが,他にも忘れ物があるかもしれません。気にしながら準備をしていると,今度は,S田さんが靴を忘れたことが判明。なんとも,ボケボケの二人です。S田さんは,ハイキングシューズで登ることにして,これまたメデタシ,メデタシ。それにしても,ここへ来るまでの時間といい,忘れ物といい,今日の山行きは前途多難のようです。

平野神社の奥の朽ちかけた鳥居をくぐり,山道を登ります。右手には,大昌寺の境内が見えています。山道は,右手にお堂があり,九十九折りになるあたりからは,道の脇に西国三十三ヶ所の石像があります。こんな西国三十三ヶ所のミニチュア版を見ることがありますが,30分ほどで西国三十三ヶ所を回ろうなんて,手抜き足抜きじゃないの?

しばらく登ると,左手の谷から登ってきた道と合流。西国三十三ヶ所の道から分かれ,尾根道を目指します。登り始めて15分ほどで尾根道です。尾根道は倒木がなく,落ち葉のじゅうたんのシングルトラックです。展望はありませんが,MTBで走るのには,極楽快適です。途中で 「山下古道・山下郷土館・善源寺  光風台」 と書かれたプレートがあります。小さな里山だと思っていたので,チョットおどろき。

快適極楽山道を進むと,今度は 「城山・一庫ダム・展望台  笹部・大昌寺」 というプレートを発見。時間があるのと一庫ダムを見たかったのとで,早速,行ってみることにします。道はいきなり悪化。倒木があり,両側から張り出している木々の枝がうるさい。ほとんど起伏のない山道を進み,展望台を目指します。プレートにも展望台までの距離が表記されていますが,先に進んでも展望台らしき所はありません。

  
知明湖と北摂の山々 点名大昌寺三角点ピーク
知明湖と北摂の山々
点名大昌寺三角点ピーク

そしてついに三角点(242.2 点名大昌寺)へ。道は三角点ピークを巻くようにもついています。途中で北側の展望が開けているところがありますが,三角点ピークを巻き終えると,道は下っています。展望台って,どこにあるのでしょうか。三角点ピークも,まわりに木々があり,展望がありません。先ほどのわずかな展望を楽しみます。眼下には,一庫ダムと知明湖,その向こうには知明山,さらには堂床山,丸山が見えます。羽束山らしいピークも見えています。湖と北摂の山々の取り合わせがイイ感じです。これで,もっと展望が開けていればなぁと思ってしまいます。

少し早いですが,三角点ピーク(@)でランチタイムです。足元を見ると,三角点の標石は移設されています。ナゾです。いつものように食後のコーヒーをいただき,山歩きwithMTBの再開です。ピークから南に下ると城山ですが,来た道を戻り,尾根道に復帰です。

プレートのある分岐点に出ると,光風台方向へ進みます。尾根道はほとんど起伏がなく,乗車率100%です。しかも,雑木林の中の落ち葉道です。展望はないものの,MTBで走るには極楽です。さすが,北摂の主=新川さんご推薦のエリアです。登りはさほどきつくなく,尾根は極楽。もちろん,下りも極楽でしょう。こんなエリアを発見し,紹介してくれた新川さんに感謝,感謝です。

気持ちよく尾根道を進み,笹部への分岐点(A)へ。いよいよ,待望のダウンヒルです。ボブスレーコース状の下山道は適度な傾斜で,初心者大歓迎コースです。ところどころにある倒木は切られ,通行可能です。新川さんたち北摂ラリーのスタッフのみなさんの整備のおかげでしょう。快適に下り,ふもとの祠へ。ここは,先日の北摂ラリーの1日目のフィニッシュ地点(B)です。1週間遅れのゴ〜ルイン!

  
極楽快適の下り 頭上注意!
極楽快適の下り
頭上注意!

再び山頂を目指し,水路沿いのSTを進みます。登り基調ですが,なだらかなSTを進み,小さな谷へ。奥へ林道が延びていますが,すぐにSTに。急坂を登ると,尾根道です。このなだらかな尾根道も,下りは十分乗車可能,上りだって乗車可能です。でも,ちょっとシンドイ。薄暗い木立の中の尾根道は,なだらかに上っています。途中に,左手に下るSTがありますが,パス。つきあたりのY字路を左に。右に進むと新光風台に出るようです。

なだらかな尾根道が少し明るくなるあたりで,左手へ。ところが,どうもヘンです。右手に尾根があるし,道がヤブっぽくなっています。引き返して,右手へ。急な坂を下ったところが,池の堰堤です。左手の植林の向こうにも池があります。こんな山の上に池が左右にあるのは珍しいでしょう。正面の急坂を登りきると,分岐点(C)です。右に進むと新光風台,正面は一庫ダム,左手は縦走路です。

左手に進みますが,次の分岐がわかりにくい。そのまま道なりに下ってしまうと,先ほどの尾根道を下ってフィニッシュ地点に行ってしまいます。縦走路に復帰し,西に進みます。三角点への分岐(D)を過ぎると,ゆるやかな下りになります。ここからふもとまで下りっぱなしの快適極楽STです。30分足らずの下りですが,途中には展望が開けているところがあります。正面には鳥脇山の大きな山容が目立ちます。ふもとの住宅地も小さく見えています。標高200mそこそこの山ですが,なかなかいい景色です。再び快適極楽STを下ります。

下りきったところから,少し住宅地を走ると「亀蔵山 善源寺」です。ちょっとおジャマしてみましょう。門からの景色はよく,住宅地が広がっています。境内を抜けると,池があります。そこでチョットいたずら。が,竹が倒れて,危く池にはまるところでした。もうチョット踏ん張ってほしかったなぁ。

山の脇を抜け,平野神社へ。車に戻り,川西郷土館(E)へ。


川西市郷土館

 川西市郷土館は,とくに銅の精錬を業としていた旧平安邸を利用し,昭和63年11月に開館しました。ついで市内小戸にあった洋館の旧平賀邸を平成2年11月に移築復元しました。平成7年11月には,青木・平通両画伯記念館として,ミューゼレスポアールがオープンし,同時に旧平安邸では一色八郎コレクション「箸の展示室」を鉱山資料展示室とともに公開しています。

■所在地 〒666−0107兵庫県川西市下財町4番1号 (0727)94-3354

■開館時間 午前10時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)

■休館日 月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)12月28日〜1月4日

■入館料 一般300(200)円 大高生200(150)円 中小生150(100)円 ( )は20人以上の団体割引料金
       ・65歳以上の方は一般の半額となります。 ・障害者及びその介護者は半額となります。

 

  
川西市郷土館 多田銀銅山産出
川西市郷土館
多田銀銅山産出

旧平安邸(国登録文化財)

 旧平安邸は,この地方の伝統的民家の特徴と,明治以降広まった数奇屋風の造り,そして技術的な革新と近代性を備えた建物として,大正中後期に建てられました。
 主屋は,土間に沿って三間が並ぶ六間取りの平面構成で,細部意匠もこの地方の伝統と考えられます。素材は桧と欅が中心で,しかも無節の厳選されたものが使われています。
 玄関部分には接客用の部屋(現,事務室)があり,接合部に金属の補強が見られるなど近代的特徴といえます。また,中庭に面した屋根を一文字瓦葺とするほか,廊下や縁側に化粧垂木を用い,床柱に銘木を用いるなど,数奇屋風の造りがうかがえます。
 全体としては,中庭を取り囲むように,蔵4棟,はなれ座敷・浴室が配置されています。その外の東側に米蔵・納屋が南北一列に並ぶ二重構成をもった大きな屋敷で大正期の生活をうかがい知ることができる貴重な建物といえます。

 

一色八郎コレクション 箸の展示室

 「箸の展示室」は,一色八郎氏により長年収集された箸のコレクションを展示しているものです。一色氏は,手の動きと脳の発達について大きな関心を持ち,手を使うことが脳の発達を促すとして箸に着眼しました。収集された箸は920点に及び,日本各地の箸だけでなく,中国やモンゴルなど外国の箸にまで広がっています。
 箸は,「祝い箸」「工芸・民芸箸」「塗り箸」「神社の授与箸」「寺院の授与箸」そして「アジア各国の箸」などに分類・整理されています。とくに,授与箸にみられるように,祈願やお守りと同様に神聖なものとして発達しています。また,正月などハレの日に使用する祝い箸などは,習俗や日本文化を考える上で重要なものとなっています。
 なお,一色氏は,昭和57年から川西市に居を構えられましたが,平成7年お亡くなりになられ,遺族より川西市にコレクションが寄贈されました。

 

鉱山資料展示室

 平安邸内の鉱山資料展示室では,平安精錬所で用いられた道具類や発掘調査の成果を展示しています。
 平安家は,明治以降も銅精錬を行っていましたが,明治期と大正・昭和期の2期の精錬所があったことがわかっています。
 明治期の精錬所は,現在の旧平賀邸北側にあったことが当時の写真でわかります。展示資料の吹子はこの時代のもので,近世と同様の精錬技法で操業していました。
 大正・昭和初期の精錬所は,ミューゼ・レスポアール南側の位置にあったことが発掘調査で確認されています。一輪車などの道具類はこの時代に用いられたものです。

多田銀銅山
 現在川西市郷土館として公開している平安家は,多田銀銅山最後の精錬所として昭和初期まで操業していました。
 多田銀銅山は兵庫県川西市・猪名川町・宝塚市から,大阪府能勢町・豊能町・箕面市にかけて鉱脈が広がっています。採掘は平安時代後期に能勢町の地域で始まりますが,川西市国崎地区の「奇妙山神教間歩」より奈良時代に東大寺大仏の銅を産出したという伝説もあります。最盛期は,桃山時代の豊臣秀吉の経営から江戸時代前期にかけての頃で,以後生産量は減少しつつも近代まで続きました。

近世の多田銀銅山
 江戸時代になると多田銀銅山は江戸幕府の直領となり,寛文・延宝期(17世紀後半)には最盛期を迎え,猪名川町銀山で銀を中心に採掘と精錬が行われました。寛文元年(1661)には銀山役所が設置され,幕府直営の銀山経営が行われています。
 一方,川西市山下の精錬の拠点となり,元禄期(17世紀末〜18世紀初頭)には国崎地区での銅採掘量の増加に伴い,13軒の吹屋からなる精錬町に発展し役所も設置されました。山下では「山下吹」という独自の精錬技法が考案され,全国に広まったと考えられます。

明治時代の平安精錬所
 山下北部の下財では,平安家が明治以降も精錬を続けていました。当時の写真を見ると,平安邸北側に焼竃・吹屋・煙突からなる精錬所があったことがわかります。レンガ造りは近代の新しい要素ですが,吹子を用いた近世と変わらない精錬技法がとられていました。レンガ造りの高い煙突は,焼竃の排煙用で,周辺の村々への煙害対策のためのものと考えられます。

大正・昭和初期の平安精錬所
 大正時代になると,新たに近代化された精錬所が建設され,昭和10年ごろまで操業されていました。精錬所は,溶鉱炉・間吹炉・送風機小屋・煙突からなっていたことが,発掘調査や聞き取りから明らかになっています。しかし,溶鉱炉や送風機等近代化された施設を持つとはいえ,精錬の仕上げは近世以来の間吹炉が用いられていました。当時転炉を導入した近代化精錬所はすでにあり,これに比べると伝統的な小規模精錬所といえます。

 

  
旧平賀邸
旧平賀邸

旧平賀邸(国登録文化財)

 旧平賀邸は,平賀義美博士が大正7年猪名川沿いの川西市小戸に建設した,イギリスの田園住宅の形式を極めてよく遵守した住宅です。平賀博士は,安政4年(1857)福岡県に生まれ,東京帝国大学を卒業した後,関西財界の振興に尽力され,多くの公職及び財界団体の要職につかれていました。イギリス等欧米に外遊7回を重ねられ,このことが平賀邸の建築意匠に反映されることになります。施工は,鴻池組があたりました。
 外壁は小石の洗い出しで,基礎はみかげ石積み。洋小屋スレート葺きの屋根のかかった平屋の建物です。外観は出窓と煙突がアクセントとなっています。内部は,客間・書斎・寝室などの部屋が配され,出窓・暖炉が付けられ,イギリス流の形式を忠実に守っています。また,二重窓など合理的な設備と的確な装飾で引きしめるなど,端正で洗練されて衣装で統一されています。大正期の住宅の典型として,日本の近代建築史上重要な建物といえます。
 その他,博士が化学者であったことから実験研究棟と旧邸内にあった東屋・門・橋・胸像なども移築し,復元しました。

 

ミューゼ レスポアール (青木・平通両画伯記念館)

 鉄筋コンクリート造り2階建て,外観は文化の発展性と求心性をイメージしたモダンな渦巻き状の円形建築。「ミューゼ レスポアール」はフランス語で“希望”を意味しています。
 第1展示室(2階)では,川西市ゆかりの青木大乗(日本画家)・平通武男(洋画家)両画伯の画業を回顧して遺作を常設展示しています。
 第2展示室(1階)では企画展,講座・講習会を開催しています。

青木画伯
  明治24年大阪市生まれ。昭和23年より川西市居住。洋画より日本画に転身,日本画壇に新風を吹き込む。
平通画伯
  明治40年豊能郡能勢町生まれ。昭和23年より市内に居住。日展参与となる。力強い作風で知られている。

 

平安精錬所跡

 現在川西市郷土館として公開している平安家は,多田銀銅山最後の精錬所として昭和初期まで操業していました。
 多田銀銅山は兵庫県川西市・猪名川町・宝塚市から,大阪府能勢町・豊能町・箕面市にかけて鉱脈が広がっています。採掘は平安時代後期に能勢町の地域で始まりますが,川西市国崎地区の「奇妙山神教間歩」より奈良時代に東大寺大仏の銅を産出したという伝説もあります。最盛期は,桃山時代の豊臣秀吉の経営から江戸時代前期にかけての頃で,猪名川町銀山を中心に,川西市郷土館周辺の山下町下財屋敷も精錬町として栄えました。
 下財屋敷北部の平安家は明治以降も精錬を行い,大正時代には新たに近代化された精錬所を平安邸の北東側に建設し,昭和10年ごろまで操業していました。精錬所は,溶鉱炉・間吹炉・送風機小屋・煙突からなっていたことが,発掘調査や聞き取りから明らかになっています。しかし,溶鉱炉や送風機等近代化された施設を持つとはいえ,精錬の仕上げは近世以来の間吹炉が用いられていました。当時転炉を導入した近代化精錬所はすでにあり,これに比べると伝統的な小規模精錬所といえます。

「山下吹き」平安精錬所跡地
遠き昔の日よりこの地,下財にて製銅の業に力を注ぎ,それはそれなりの長き年月を過ごした多くの人の,努力は何にも変えがたきものと感謝して,ここのささやかな碑を建立しました。
           昭和62年5月吉日  平安琴 建立


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