秋晴れ 孤高?の石戸山・高見城山縦走(2000.10.7)


  
P・@〜I
P・@〜I

石龕寺へ

10月の連休の初日。朝から晴れ。こんな日は,もちろんお山歩きwithMTBです。今日は,前から行ってみたいと思っていた石戸山・高見城山の縦走コースです。このコースは,S田さんもwithMTBで歩いていますが,今回はその逆コースを行くことにしました。初めに,石戸山に登ると,あとは標高が低くなるので下り基調のはずです。地形図を見ると,下り基調の中にもいくつも小さなピークがあります。逆コースにしてもあまり変わりはないかもしれません。

R175から山南町へ。「石龕寺」の表示を頼りに,進みます。しだいに山がせまってくると,岩屋の集落です。この集落では,栗の栽培が盛んです。道路の両わきに,大きなイガをつけた栗の木がたくさんあります。さすが大粒で有名な丹波栗です。爪あと栗・ててうち栗ともいわれているようです。

都をば出て落ち栗の芽もあらば
  世に勝ち栗とならぬものかは

石龕寺仁王門前の駐車場に車(P)をとめ,準備にとりかかります。まわりを見ると,もみじの木がたくさんあります。もみじの寺として有名だということを聞いたことがあるのですが,これだけあると紅葉の時期はきっときれいでしょう。と同時に,観光客も多いでしょう。奥の方からは,重機の音がしています。入口の墓地では,村の人たちがそうじをしていました。これからの紅葉の時期に向けての準備でしょうか。

しばらくは舗装路が続き,MTBでも乗車できます。が,この日のボクのMTBは,変速の調子が悪く,力を入れてクランクを回すと,勝手に変速してしまいます。困ったものです。

岩屋山石龕寺

このお寺は,用明天皇丁未の年(西暦587)聖徳太子によって開かれた毘沙門天信仰の聖地であります。「石龕」とは石窟・岩屋のことで石窟内に仏さまをまつることを意味します。今の本堂より山の上800mで「奥の院」がありますが,そこが石窟で石龕寺の発祥であります。仁王門は鎌倉時代のもので仁王像は仁冶3年(1242)仏師定慶の作で国の重要文化財です。室町時代,足利尊氏の帰依を受け,二代将軍になった義詮公が一時逗留した寺(太平記29巻)でもあります。天正7年(1579)織田信長の丹波攻めに遭い一山ことごとく焼失,仁王門のみ残すことになりました。江戸時代以後,衰微の中で法灯を護り,昭和時代の晩年から,もみじの寺,足利氏の寺,仁王像の寺として脚光を浴び,平成6年奥の院(石窟)を復興,鏡桜堂を建立して山容に銘鏡がこだまする寺となりました。

  
石龕寺仁王門 石龕寺奥の院
石龕寺仁王門
石龕寺奥の院

石龕寺奥の院

舗装路の終点は,本堂?です。左手には,コウヨウザンという巨木があります。高さ37mもあるスギ科の常緑針葉樹です。その右手奥には,奥の院への道があります。その分岐には,なぜか七福神の石像があります。尾根に上がるように道はついていますが,いきなりの押し&担ぎです。植林帯の中の九十九折りの急坂ですが,それだけにどんどん高度が上がります。石龕寺ももう足元です。尾根に出ると,関電巡視路の「火の用心」があります。行ってみたいところですが,今日は行けません。

途中で1mほどのヘビに遭ったりしながら,あいかわらず押し&担ぎの連続です。それでも,ところどころで開けている展望を楽しみに,登ります。奥の院への表示は100mおきにあるので,道に迷うことはありません。先ほどの「火の用心」からは,巡視路になったいるようで,ところどころにプラスチックの階段が使われています。

左手に高圧鉄塔が見えるようになると,奥の院はすぐです。最後のひとふん張りで,奥の院着。石龕寺からは0.7kmだそうです。短いわりには,疲れました。この奥の院には,鐘撞き堂があります。まずは,一発!ゴ〜ン〜!なかなかいい響きです。この鐘楼は,足利尊氏寄進の京都東寺の鐘楼梵鐘に模して建立したとか。脇には,役の行者像もあります。左手奥の山肌を巻くようにつけられた道の先には,奥の院があります。そのさらに奥には,蔵王権現。さらに奥には,足利義詮が約2ヶ月留まったという将軍屋敷址の石碑があります。今は,その石碑の前には,休憩所のような小屋があるだけです。まさか,これが将軍屋敷の復元ではないでしょう。なお,奥の院は,麓の集落からでも,山の中腹にあるのが確認できます。

奥の院

その昔,聖徳太子が物部守屋をせいばいした時に,自ら毘沙門天の尊像を刻んでかぶとに携えていた話は有名ですが,その後不思議にもこの尊像が空中に飛散してしまったといいます。太子がこの尊像の行方を国中探し求めてこの地に来たとき,山の中の石窟に毘沙門天の尊像が安置されているのを見つけたといわれています。この石窟は今も「奥の院」としてまつられており,石龕寺の発祥ともなりました。

不吉な名前の「頭光嶽」

鐘楼からは,またしても担ぎです。頭光嶽0.3kmとあります。それほど距離はないのですが,「頭光嶽」とは,チョット不吉な名前です。頭光嶽=頭が光っている嶽 う〜ん,最近,特に髪の毛が少なくなってきているボクにとっては,イヤな響きです。まぁ,ボクの場合は,頭のてっぺんじゃなく,前からハゲているのですが。だから,ボクの場合は「額光嶽」…?とまぁ,そんなバカなことを考えながら,ハゲ頭嶽…じゃなくて「頭光嶽」(@)に到着。山頂には,高圧鉄塔がたっています。これでは,ハゲ頭に1本だけ髪の毛が立っているみたいです。これじゃあ,サザエさんの波平さんですがな。左手には,金屋鉱山跡の岩肌が見えています。

頭光嶽 標高439m

聖徳太子が毘沙門天像を求めてこの地に来られたときこの山よりまばゆい光が発していたので一寺を建て名づけられた

頭光嶽からは,少しだけMTB乗車可能です。ですが,すぐにガレた道になり,乗車不能。目の前には,先ほどの金屋鉱山跡の岩壁が迫ります。九十九折りの道は,金屋鉱山跡に続いています。

金屋鉱山跡

金屋鉱山跡(A)着。見上げると,岩壁がさらに高く見えます。と,先ほどから気になっていたのが,一部の黒い岩の層です。案内板には,次のような記述があります。

金屋鉱山跡 大正時代より採掘,昭和50年代廃山

輝緑岩の岩脈 断層面の岩脈にマグマが入り,冷えてかたまったもの。サヌカイトの一種で,大昔の石器の原石。カオリナイト タイルや陶器の原料にされた。輸入におされ廃山。

金屋鉱山は滑石鉱山といわれていますが,滑石というと蝋石を連想してしまいます。蝋石は,アスファルトの道やコンクリートの壁に落書きをする時に使ったことがありますが,まさかそんな落書きのために産出していたわけではないでしょう。しかも滑石鉱山は,他にもたくさんあります。そんなにたくさんの滑石=蝋石を産出していたら,道路や壁は落書きだらけになってしまいます。『楽しい鉱物図鑑』によると,滑石は,現在,印材,薬品,製紙に使われ,上質な西洋紙には多量の滑石が混入されていて,本が重い原因になっているそうです。な〜るほど,滑石は落書きばかりに使われているのではないのだ。なお,この金屋鉱山から産出されていたのは,陶器の原料になるカオリナイトです。

サヌカイト

漆黒色で緻密な安山岩。古銅輝石・輝石・磁鉄鉱および稀に柘榴石などを含み,ハンマーで叩けばよい音を発する。石材として利用。かんかん石。讃岐岩。(『広辞苑』)

カオリナイト

アルミニウムの含水珪酸塩で,超微粒子の集合体として産出する,いわゆる「粘土鉱物」の代表的なものである。陶器で有名な中国の江西省景徳鎮で,近くの高陵(カオリン)村の陶土を使用していたことから,カオリンの名前が世界的に使われるようになった。鉱物名としてはカオリナイトが正式である。製紙,化学工業にも広く利用されている。凝灰岩,花崗岩,長石などが変化してできる。白色塊状で,吸水性があり,舌を吸いつける。また,特有の臭いをもつ。(『楽しい鉱物図鑑』堀秀道)

  
カオリナイトの中のサヌカイト層 鉄平石の塔?
カオリナイトの中のサヌカイト層
鉄平石の塔?

くずれかけの岩屋山

この鉱山跡からは,今は廃道になった林道を下ると金屋の集落に行けるようです。登山道は,これから左手の尾根を目指します。前方には,石戸山も見えます。鉱山の岩壁の上が岩屋山のようです。登山道は,尾根まで一気に登ります。途中で,ギャーと叫び声のような鳥の鳴き声が聞こえてきました。あまり気持ちのいいものではありません。

尾根に出ると,案内板があります。この縦走路には,要所,要所に案内板が設置してあり,地図がなくても迷うことはないほどです。その案内板によれば,左へ行くと岩屋山,右は石戸山です。このまま石戸山に行ってしまうのもったいないし,時間もあるので,岩屋山へ寄り道です。

岩屋山へは,時間はそれほどかかりません。が,3ヶ所,尾根がへこんだ所があります。調子にのってMTBに乗ったまま下ると,前転しそうです。このへこみは,岩屋山山頂にあった岩屋城の堀だそうです。この堀で,北からの敵の攻撃を防いだとのこと。こんな山の上へ城を作るほうも作るほうだけど,攻めるほうも大変だったでしょうねぇ。

岩屋山山頂 標高506m(岩屋古城址)

北の高見城に通じ,南は小川,久下,和田,西は氷上町,北東は柏原町を見下ろす要害の地であって戦国時代広沢綱忠ここに拠ったと伝える。中世は丹波の修験の根拠地として熊野・白山両権現を祀っていた。よく晴れた日には瀬戸内海をも望める。

チョットがっかり石戸山

岩屋山へのピストンを終え,いよいよ石戸山へ。しばらくの間は,MTBでも乗車可ですが,山頂直下は担ぎです。山頂に近づくと,建物らしきものが見えはじめました。近寄ってみると,建設省の無線中継所です。一等三角点の山頂(3)だというのに,チョットがっかりです。その上,山頂に立っても展望がないので,さらにがっかり。

石戸山三角点 標高548.8m

国土地理院一等三角点であるこの地点は,山南町氷上町柏原町の境界点でもある。三角点の近くに加古川流域の災害に備えて建設省石戸山無線中継所がある。これより少し北に鉄平石の採石場跡がある。その付近は360度の展望がたのしめます。

コース最高地点の石戸山を過ぎると,さほど登りはありません。下り基調の道です。一部を除けば,MTBで快適に下れます。ただ,道が狭いので,ハンドルが木の枝にひっかかったり,急斜面に転落する危険があります。

鉄平石の広場

しばらくすると,鉄平石がたくさんあるところ(C)に出ます。ここでは,鉄平石を産出していたそうです。誰が始めたのか,その鉄平石を積み上げて,賽の河原のようです。一つ積んでは母のため…。鉄平石は平たい石なので,つい積み上げたくもなるでしょうが,あれは…。どうせするんなら,登山道に敷き詰めて,敷石のようにしてもらいたいものです。

鉄平石 

長野県諏訪市福沢山一帯から産する輝石安山岩。板状の節理がよく発達し,容易に薄板状石材を得られる。化粧石,敷石などに用いる。へげ石。へら石。(『広辞苑』)

鉄平石からも縦走路はさらに続きます。しだいに道の勾配はなくなり,ほとんど水平移動です。地図にあった小さなピークは,東側を巻くように道が続いています。展望はほとんどありませんが,楽チンです。ただ,あいかわらず道が狭く,右は急斜面になっているので,慎重に乗らなければなりません。

展望がきかない縦走路から,いきなり明るい尾根道に出ると,そこは新設の高圧鉄塔のある場所(D)です。その先には,これから行く予定の高見城山が見えています。高圧鉄塔の近くに立つと,東・北・西の展望が見事です。しかも,高度感もあるので,イイ気持ちです。

  
新設の高圧鉄塔と高見城山 高見城山山頂
新設の高圧鉄塔と高見城山
高見城山山頂

いよいよ高見城山

目の前に見える高見城山を目指して,縦走の続きです。途中に小さなピークがあったのですが,これも巻き道でパス。分岐に着くと,左手に登り,いよいよ,高見城山です。最後のひとふん張りといった感じの登りです。登りつめると,開けた山頂(E)へ。これまた見事な展望です。しばしの間,展望を楽しむことに。東には,清水山とその連峰。さらには,多紀アルプスも見えます。南には,白髪岳,松尾山。西は,アンテナのある篠ヶ峰,その奥には千ヶ峰,その左手には先日登った笠形山も見えます。なだらかな山頂の三国ヶ岳も,粟鹿山のアンテナも見えます。足元には,柏原の街が見えます。さすがに城があっただけのことはあります。見事な展望です。

般若寺跡と虚空蔵菩薩像三体

高見城本丸跡より700m東に般若寺跡がある。この寺には,かつて三体の虚空蔵菩薩像が安置してあったが,高見城落城後,鴨野,母坪,稲継各村に移し,小堂を建て,お祀りしてある。

お弁当を食べた後は,下山にとりかかります。山頂から少し進んだところに祠があります。祠からは,遊歩道を下ります。途中で,高見城山山頂を巻く道と合流,さらに下ります。と,亀井戸の案内板があります。案内板がなければ,井戸があったなんてわかりそうもありません。

亀井戸

高見城の水源として掘られたと伝えられ,わずかにその痕跡を残している。この井戸をめぐって次のような伝承歌がある。
「山の裾から18町 朝日輝き 夕日さしこむ 三葉柳の露の下 一丈五尺の井戸の底 黄金の束が7,8つ」

さらに下りますが,MTBではほとんど乗車不能。ただの重い杖です。しかも,遊歩道につきものの丸太の階段もあります。

展望台へ

下りきったところが,丹波悠遊の森・展望台・高見城山の分岐(F)です。鴨野へも下りれそうですが,今回はパス。このまま丹波悠遊の森に下りるのもつまらないので,展望台経由で下山をすることに。

ここからは,古い丸太の階段がありますが,道自体も古いようです。展望台に到着。東屋がありますが,なんと,周りは植林です。つまり,展望はありません。展望のない展望台というわけです。ここも,できた当時は,木が低くて展望があったのでしょう。が,今となっては,ただの休憩所です。

下山道はさらにその先に続いています。進んでいくと,こちらの方が展望がいい。荒れた道ですが,ところどころはMTBでも乗車可能です。この道は,あまり利用する人がいないようです。下りきったところは,峠(G)です。道に沿って鹿除けのフェンスが続いています。

座禅坂と五輪塔

座禅坂は,僧が座禅をして悟の域に達したとされる場所。付近にある五輪塔は室町時代末期のものと思われる。

フェンスをくぐり,さらに下ります。快適とまではいきませんが,なんとMTBでも下れます。左手に墓地が見えると,終点の三寶寺(H)です。とりあえずは,縦走終了。が,このままでは帰れません。車を置いた石龕寺まで帰らなければなりません。ようやく,withMTBの価値が発揮されます。歩きで帰ると何時間もかかるでしょうが,MTBだと1時間もあれば帰れるでしょう。

帰り道は遠かった

帰りは,舗装路を帰ってもいいのですが,時間があるので大新屋の林道を通り,奥野々に出て帰ることにしました。が,これがまたもや大間違い。丹波悠遊の森から道はしだいに荒れ始め,ついには,大きな石がゴロゴロしている川底のような道になってしまいました。大きくえぐれている所もあります。植林帯の中の道になると,今度は九十九折。後悔,先に立たずです。

(I)に立つと,やれやれです。見ると,案内板があります。丹波の森公苑に続く道があります。おそらく,先ほどの新設鉄塔の少し南の487のピークからの尾根にできた巡視路を利用しているのでしょう。高圧鉄塔ができると,こんなふうに新しいルートができることもあるんですねぇ。

峠からは,これまた荒れた道を下ります。おそらく以前は車が通ったであろうこの道は,今はすっかり廃道です。アスファルトの残骸が哀れです。下りきったところには,今はもう使われていない牛舎が並んでいます。さらに下ると,現役の牛舎が現れてきました。民家も現れ,ようやく人里に出ました。このあとは,石龕寺まで帰るだけです。やれやれです。

今回のMTB乗車率は,縦走路の尾根だけなので決して高くはありません。といっても,消費税ほどということもありませんが。でも,今回のコースには,珍しい地質を観察できたり,歴史にふれたりと,見所の多いルートです。しかも,今日のこのコースで出会った人は誰一人いませんでした。やっぱりwithMTBだと,登山者にとって脅威になりかねませんからね。石戸山は「ふるさと兵庫50山」に選定されているものの,登る人は少ないのでしょうか。それとも,今日から始まる連休は地域のお祭りで,山どころではないのでしょうか。だとすれば,10月の連休は,山行きに最適?


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